日本史の未遂犯 ~明治新政府の重鎮・岩倉具視を襲撃した男~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~スピンオフ【武市熊吉】
現場に下駄を残してしまった武市
すぐに警視庁による大規模な犯人の捜索が始まりました。
重要な証拠となったのが、武市の下駄でした。武市は焦っていたのか、現場に下駄を残してしまったのです。この下駄は都心の者が履くようなものではなく、田舎者が履くものであると判断されたため、まず犯人は地方の出身者、特に征韓論で政府に不満を持つ薩摩人、土佐人に絞られました。どちらであるかを特定するために、武市たちに提灯を奪い取られた僧侶とその娘が招集され薩摩弁と土佐弁を聞かせて、聞き覚えがあるかどうかを問い質しました。その親子が「土佐弁でした」と言えば、事件は解決となったところですが、武市たちは運が良かったことに、親子はどちらの方言も聞き覚えがないと言ったため、逮捕には繋がりませんでした。
しかし、薩摩か土佐の出身であることに疑いのない警視庁が捜索を進めると、中西茂樹などを乗せたという車夫への聞き取り調査によって、犯人は高知県人であることが断定され、とうとう走査線上に武市たちが浮上してしまったのです。
武市は、事件後に寓居を土佐県人らが多く住む築地の上柳原町の十番地に移していましたが、警視庁の探偵吏がついに迫り、事件からわずか3日後の1月17日に逮捕されてしまいました。
逮捕の瞬間、武市は「暫(しばら)く待て」と、捕吏に箪笥から衣装を出させて身支度を整えて、羽織袴姿で折り目正しくお縄につく、偉丈夫ぶりを見せたといいます。
首謀者である武市の逮捕と時を同じくして、残りの8人も全て逮捕されます。牢獄に入った武市たちは激しい拷問と取り調べにあいました。
この時、下駄の持ち主は誰であるかを執拗に問い質された一行は、それが武市の物と知りながらも、誰も口を割ることはありませんでした。また、首謀者が武市であることも伏せ、あくまで列座して挙動に移したということを自白しています。武市はこれを受けて、仲間たちにこれ以上の危害が及ぶことを案じてか、自分が首謀者であるということを自白しています。
事件から半年後。
7月9日の朝に、臨時裁判所の法廷において「除族の上、斬罪(斬首)」を申し付けられました。
除族というのは、華族や士族が身分を除かれて平民とされることであり、裁判所は武市たちから武士や士族の立場を剥奪した上で斬首することを言い渡したのです。
その判決を聞いた武市たちは憤りました。
「死は素より期するところなれども、除族とは何のことぞや。先に武士の面目を立てやると誓うた一言は虚構であったか!」
一同は怒りと諦めを表情に浮かべた後、顔を見合って笑い合ったといいます。
そして、判決が下された当日、武市らは刑に処されました。享年は35でした。
「八つ裂に 成る身は更にいとはねど 心にかかる 大君(おおきみ)の御代(みよ)」
辞世の句には、自分の身はどうなろうとも、皇国の行く末のみを案じる武市の心情が表されています。
武市らが起こした「喰違の変」が一つの契機となって、1877年(明治10年)の「西南戦争」や1878年(明治11年)の「紀尾井町事件」など、不平士族たちの反乱が巻き起こりました。
武市に関する史跡や遺物はほとんど伝わっていません。
しかし、襲撃現場となった喰違門跡には、武市らが姿を隠したであろう土塁や堀が当時の姿に近い形で残されています。また、岩倉具視が身を投げた側の水堀は、今は埋められていて「上智大学真田堀グラウンド」になっていますが、当時の堀の深さをまだ体感することができます。
武市の墓は高知県土佐市の皿ヶ峰に弟の武市喜久馬と隣り合って建てられています。